『あと千回の晩飯』

山田風太郎『あと千回の晩飯』朝日新聞社、1997年4月1日、ISBN:4022569239

山田風太郎さんの小説が大好きだ。
片っ端から読んで、そのままタイトルごと忘れてしまうので、熱心なファンとはとても言えない。
でもだいたいのところは読んでいるはず。
ところが小説以外のものは、日記ものと『人間臨終図鑑』以外ほとんど読んでいなかった。
日記ものは、それを書いた当時の著者と同年齢だった頃に、自分と重ね合わせながら読んで、共感するところが多かった。
『人間臨終図鑑』は、私自身の中でいちばん大きいテーマ(テーマっていうのも変だけど、問題っていうのもおかしいから、まぁそんなもの)に風太郎さんがどう取り組んでいるかに興味があって読んで、裏切られなかった。
ただ、「これでやるべきことは全部済ませた」という印象が強くて、あとの作品を読むのが怖くなった。
書くべきこともないのに、書きたいこともないのに、いろんな事情で書きつづけなければいけない。そんなことになっていたらどうしようかと。
あれほど楽しく上質の小説をたくさん書いてくれた人が、無残な姿を晒すのには耐えられないと。
一読者の勝手なわがままと妄想に過ぎないけど。
だからこの『あと千回の晩飯』はこわごわ読んだ。
読んでよかった。

衰えは間違いなくある。
でも老いて衰えた自分としっかり向き合っている。
医学生だったこともあって、体にかかわることで荒唐無稽な思い込みや行動はない。
私はそういうのが苦手なんだけど、それで読む気がなくなるなんてことがなくてよかった。
老いを迎えた時に人間がどうなるのか、教わるところがたくさんあった。
気に入った断片を拾ってみる。

白内障も悪いことばかりではない。眼は、風景を見るにはよく見えるほうがいいが、人類を見るには、少しかすんでいたほうがいいようだ。(pp.22「白内障」)

ウチのばあちゃんも同じようなことを言ってましたね。
白内障のレンズ交換を済ませて、びっくりするほどよく見えるようになったとき、母(自分の娘)の顔を見て、「あんた、そんな顔やったんかいな。(暗にブサイクと言いたい)」って。
「世の中きれいな人が多いと思ってたけど、なんや、そんなことなかったな」とも。
あと、掃除をする人にとっては、体力が落ちてくるとともに、視力も落ちていろんな汚れが見えにくくなるほうが助かるみたいです。

私は、七十歳を越えて、心身ともに軽やかな風に吹かれているような気がする、と書いた。
その理由を考えてみると、要するに「無責任」の年齢にはいった、ということらしい。
この世は半永久的につづくが、そのなりゆきについて、あと数年の生命しかない人間が、さかしらに口に何かいう資格も権威も必要も効果もない。
(中略)七十歳を越えれば責任ある言動をすることはかえって有害無益だ。(pp.76「軽やかな風の意味」)

これもわかる。
またウチのばあちゃんだけど、「わたしら狂牛病なんかいっこもこわない。発病するのに10年もかかるんやろ。それやったらその前に死んでるわ」だそうです。
そういうことではない?

「長命の人は、(中略)みなさんひとの頭でも踏みつけて人生を超えてこられたような個性の持ち主」(pp.8「長寿祝い」ある老人病院の医師の言葉を引用して)。

だいたいにおいてそのとおり。
ただし、中にはそうでない人もいて(あるいは、年をとってからそうでなくなったのかもしれない)、そういう人ほど生きているのが辛いと言う。早く死にたいと口にする。
例えば、通り魔事件の被害者を気の毒がるおばあさんがいた。
「あんな若い女の子がかわいそうに。代わってやりたい。そんな若い子を殺さずに、私を殺せって言いたい」。

「長生きはそんなにめでたいか」という問題提起。(pp.9「クソジジイ・クソババア」)
著者は、痴呆の例をあげて、そんなことはないと言う。
人間以外の動物は、ひとり荘厳に死んでゆくのに、人間だけがなぜ無惨な最終局面を迎えなければならないのかと。
それはそうだ。
でも異論がある。
長生きがめでたいとは限らないが、長生きしてしまったらそれをめでたいと考えるしかないんじゃないかな。
だって動物のように死にたくないから、人間は医学とかなんとかを作り上げて、そのおかげで、痴呆になるまで生きられるようになったんだから。
動物みたいにひとり荘厳に死ねる人なら、痴呆になる前に死ねるだろうけど、そんなことができる人は、ほとんどいないと思う。
私だってできない。
だったら、尊厳なんかなくなったって生き続ければいい。
痴呆になるのは嫌だという人は(みんな嫌だろうけど)、ならないよう必死で努力して、なる前に死ぬことを祈るしかない。
でも他人にそれを押しつけない方がいい。
他人の尊厳を奪うことはしちゃいけないけど、失ってしまったものは非難しちゃいけないと思う。
だって運が良ければ、みんなそうなる可能性があるんだもの。
なってしまったら、しょうがないじゃない。
おむつだって、堂々とすればいい。
「赤ん坊のウンチは可愛らしいが、クソジジイ、クソババアのほうは可愛らしくない」(pp10)とあるが、ジジババのウンチも可愛らしいと思えるように努力してみよう。
なに、元に戻るだけの話じゃないの。

で、けっきょく私がいちばん好きなのは、こういうところ。

ツルゲーネフ散文詩「対話」には、何億年かの後、ウジ虫のような人類がすべて死に絶えたあと、蒼空に白くそそり立つアルプスのユングフラウとフィンステラールホルンが、静謐になった地上を見下ろして「これでせいせいした」と話し合う。
時間的にも空間的にも、無限につづく死の大宇宙。
来世があるとするなら、これがまちがいのない来世の姿だ。
それを空想すれば、やがて来る自分の死など、虫一匹にもあたらない―と、考えることにする。(pp.83)