千房のお好み焼き。

千房にひさしぶりに行った。
最後に行ったのは、たしか高校1年か2年の時。
記憶違いでなければ、中学校の同級生がバイク事故で亡くなって、葬式に行ったあと、同級生仲間と千日前の店に行ったんだった。
遺体を見たあとにお好み焼きというのも趣味が悪いが、あれはあれでなにか必然性のある選択だった気もする。
死んだ同級生も、たった16か17年生きただけなのに、「あいつはやりたいことを全部やったと思う。悔いはないはず」とみんなが納得するような奴だったし。
当然ながら、お母さんは号泣していたけど。(ひとが恥も外聞もなく取り乱す姿というのをあのとき初めて見た)。

もしあいつがあのとき死なずにいまも生きていたら、どうなんだろう。
生きることの快をすべて経験し尽くすような生き方をして、そのあとどうなったんだろう。
たしかに幼い経験だったかもしれないけど、純度で言えば限りなく純粋な快だったかもしれない。
そのあと、何が残っているのか。
プラマイゼロのような気がする。
当時も今も、あいつは太く短い生命を燃やし尽くして逝ったと思える。

それはそれとして、当時は千房と言えば<ぬかるみ焼き>だった。 (実は新野新さんのサイン本持ってます=自慢。あ、でもどこにしまってあるのかわからない)。
20年以上経ったいまもぬかるみ焼きがあるのかどうかは知らない。
尋ねる勇気もなくて、千房焼きを頼んだ。
ら、やや日本語がおぼつかない店員さんにシーフード焼きと間違えられてしまった。
味はまぁまぁ。
おいしいところや、工夫しているところもうかがえたけど、うーん、これはというところもあった。

千房は、私がぬかるみ焼きを食べていた頃にスタートして、今に至るまで着実に成長し続けたみたいだ。
そこにはいろんなノウハウがぎっしり詰まっているんだろうと推測する。
ただチェーン展開の店って、器までは決められても、そこから先、そこに何を込めるかについては、実際に店に入る店員さんによるところが大きいんだと思う。
そこはもう何も込めなくてよろしいと、マニュアルで固めてしまうのも1つの方法。
教育に工夫をして、店員さんの人間性を引き出すのも1つの方法。
今日は、いろいろうまくいかない問題点が店にあって、何とかしたいと思ってはいるけど、どうしていいのか分からないという感じの店員さんに少し同情した。

あっ、そういえば、昔は何にも言わなかったら、自分で混ぜて焼くようになってたと思うんだけど、今日は向こうで焼いて出してきたなぁ。
これも変わったのかな。