宮部みゆき『ステップファザー・ステップ』

宮部みゆきステップファザー・ステップ』1996、講談社文庫、ISBN:4062632853
軽いタッチの楽しい連作短編集。コメディ・クライムもの。
細かい部分で素顔を覗かせたり、遊んでいたり、他の作品とは一味違う。
続編がまだなのはとても残念。

ラブ・ストーリー

読み返してみると、主人公と双子の兄弟との間のラブ・ストーリーとしても読める。
これ以上親密になってしまったら、別れが来た時に傷付いてしまう。だからもう近付くまい、距離をおこうと一度はしておきながら、いや先のことは分からないが、いまいっしょにいて楽しいなら、それでいいんだと思い返す。いつか傷付くことを恐れながら、互いに近付いていくのを止められない男女のよう。(「ロンリー・ハート」)。
双子の本当の親が帰ってきて、自分が不要になったと思った(勘違いした)時の傷つきよう。胸に大きな穴を抱えて、ヤケ酒飲んで酔っ払って、まるっきり失恋した男そのものじゃないか。(「ミルキー・ウェイ」)
私が子供を持ったことがないから、この本で描かれる、血の繋がりがない男と子供の愛を男女間のそれと同じように読んでしまうのかもしれない。
でもそう読めるように描かれているとも思う。

学校

そもそも、文学作品や小説、物語は、考えたり説明したりするために味わうものではない。まず楽しんで、次に解釈―それも自由な解釈をしてこそ意味があるのだ。(中略)
だが、最後に「テスト」というものが待っていることを考えたら、出口はひとつ、結果は同じだ。自由に解釈し、自由に感動することは許されない。子供たちはみんな、テストで丸をもらえそうな答えを探すだけだ。そして、本を読むことが嫌いになる。そういう意味では、なまじっか、親切そうな「考えてみよう」などという提案口調の教科書の方が、ずっと始末が悪いかもしれない。こういうやり方を、教育亡国という。

最後のところ、なんだか養老孟司氏の口調みたいだ。
これで思い出した。
中学校の時に「教科書ガイド」という参考書を買ったことがある。
科目は国語だった。
それは、先生用の教科書みたいなものだった。
「ここではこう考えよ」、「ここではこう感じよ」ということが、生徒用の教科書に付け加えて書いてあった。

私が小学校5、6年の時の国語は本当に自由に読んで良かった。
人に説明さえできれば、どんなに勝手な読み方も許された。
児童同士でお互いに意見を言い合うのも楽しかった。
あの時は先生に恵まれていたんだな。(油井先生ありがとう)。
中学校に入ってからは、がらっと変わった。
自由に楽しんで解釈して良いと中学の先生も言っているみたいだけど、なんだ、実際に要求している答えは1つだけなのかと気付いた。
それで「教科書ガイド」なんてのを買ったんだ。
最初から答えが1つに決まっているんなら、自分でいろいろ考えるなんてムダじゃないかと思って。
学校の国語は効率良くささっと済ませて、楽しむのは自分でやろうって。
可愛くない子供だったなぁ。

学校側で多弁なのは、一人、校長だけだった。
俺も、ひと目見て嫌いになった。話を聞いて吐き気をもよおしそうになった。倫理観だの正義感だの規律正しい学校生活だのと言っているが、あれは選別思想のなにものでもない。学校での落ちこぼれは社会の敵、ひいては人間のクズになるという、乱暴きわまりない断定と、学校内で自分の意見に従わないものは落伍者になるという、自信過剰な思い込みが、背広を来て(原文ママ)歩いているだけの爺さんだ。

ここは、主人公の口を借りて、宮部みゆきが直接語っているように感じた。
実際にこういう、いけ好かない先生がいたのかも。
(私は高校の現代国語の近田先生を思い出した。校長じゃないけど)。
具体的なディテールによって、誰が読んでも「これは嫌な人間だ」って思わせることはしても、ディテールを省いて、こうまではっきり誰かを非難するのは珍しい。
ところで、「選別思想のなにものでもない」は「選別思想<以外>のなにものでもない」なのでは。「背広を来て」は当然「着て」だよな。

モラル

礼子先生は良識ある教師である。生徒の父親に横恋慕 ―本当はそうじゃないのだが―するような女性ではない。
たが、哲は真顔で言った。「そうかな。だけど、好きになっちゃえば、相手が結婚していようが子供がいようが関係ないんじゃない?」
そして、口をつぐんだ。その厳しい線をつくっている口元が、(だけど僕はそういう考え方って好きじゃないな)という、語られざる本音を、しっかりと表わしていた。
だからこう言ってやった。「関係なくないさ。少なくとも、俺は、自分さえ良ければいいという考え方は嫌いだな」

双子は、そういう考え方の両親が、「自分の人生を後悔したくない」ってそれぞれ駆け落ちしてしまったから、2人きりになってしまった。当然、そんな考え方は嫌いだ。
ひょんな行きがかりから、やむを得ず父親代わりになった泥棒の<俺>も、そんな考え方ではないから、双子と次第に愛情を深めていくことになる。
健全なモラル。

収入源としての夫は手離さず、浮気を楽しんでいた(つもり)の女を評して、

彼女は、自分で取捨選択して生きているつもりでいるが、傍目から、ちょっと焦点を変えてみて見ると、捨てたつもりのものに捨てられながら生きているだけだ―ということが、すぐわかる。

狭い視野の中で、<しっかり損得勘定をして、かしこく、得をして生きている>つもりの人。
一歩その視野の外に出てしまえば、そんな損得勘定が成り立っていないのにも気付かない。
哀しい存在だけど、関わり合うと不愉快な気分にさせられる。
「勝手にしてな」としか思えない。

遊び

ワープロの誤変換とか細かい遊びを入れている。時々、フッと笑わされる。

1つのセリフを双子の2人に割り振った分割話法を多用しながら、

会話を割って行数を稼ぐなんて、三文作家がとる姑息な手段である。いや、失礼。

トリビア

口で息をしながらものを書くというのは、なかなか至難の業なのだ。(嘘だと思ったら試しにやってご覧なさい。できないから)。

それは知らなかった。
自分がものを書いている時に、鼻で息をしているか口でしているかなんて意識したこともなかった。

「風邪ってさ」
「早くよくなってってね」
「心配してもらうために」
「ひくものじゃない?」

そうなのか。
じゃあ、ここ数年本格的な風邪をひいたことがない私は……。

タイトル

今まで、宮部みゆきはタイトルが弱いと思っていた。(あくまでも本文に比べればの話だけど)。
最近の作家は“キャッチー”なタイトルを付けるのがうまい。
まるで広告のコピーみたいだ。
それに比べると、宮部みゆきのは、内容を表わしてはいるけどちょっと地味かなぁと。
今作はちょっとオサレかな。