喰うべきか、喰わざるべきか(続き)。

昨日の日記に28さんがコメントを付けてくれて、『豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日』(ISBN:4623038335)という本が出ていることを知った。レビューを読んでみたら、案の定というか、予想どおりの意見がある。
こういうのをイケナイって言う人は、当り前のことに気付かないふりをしているんだろうな。人間は、ほかの生き物の生命を奪って、それを食べて自分の生命をつないでいる。豚だけじゃない。牛も、鶏も、馬も、米も麦もジャガイモもサツマイモもトウモロコシも、みんな生きている。それを食べてきたおかげで、いま自分が生きていられる。そんな当り前のことがわからないんだろうか。それとも、薄々わかっていながらわかりたくないのか。それを形容するなら、「臭い物に蓋」だろう。
どんなにつらいときでも何にも食べなかったらお腹が空いて、体が消耗していたら焼肉をうまいと感じてしまう、そういう体を私は持っていて、死ぬまでこの体で生きていくしかない。そういうのがたまにつらくなることだってあるけど、だからと言って、それで死ぬほどのガッツは私にはない。そんなガッツのある人はとっくに死んで、もう生きていない。だからいま生きている人はみんな、私とたいして変わらないはず。
畜産農家だって、大事に育てていれば、情が移ってしまうものだ。父の実家では祖父が牛を育てていた。そりゃあ大事に大事に、ひょっとしたら、いやたぶん人間以上に大事に育ててた。病気しないように、順調に育つようにって、商売が掛かってるんだから、真剣だ。それは愛情じゃなくて、親切なのかもしれない。でもそうやって育てた牛を売るときには、やっぱりつらいもんだ。むこうもなつくし、こっちも心が通いあうような気になってしまう。でもつらいからってずっと育てていれば、こんどはこっちが餓死してしまう。
「いつか殺して食べる動物なら、機械的に育てればいいんだ、他人にそういうふうにやらせればいいんだ」って考えの人もいるみたいだけど、それなら祖父のような行為もイケナイことなんだろうか。
ごくごく当り前のことだから、大騒ぎしたくない。特別に褒め讃えるつもりもない。まだその本も読んでないし。でもそういう話がすんなり通りにくくなってきているから、こういう取り組みをその先生はしたんじゃないかって気がする。
こういうことを全部すっ飛ばして、「いのちのたいせつさ」なんか語ったってしょうがない。