清水啓司『奇妙な果実』

ひさしぶりに凄いものを観た。
清水啓司『奇妙な果実』DANCE BOX vol.120 DANCE INDEPENDENT Art Theater dB。

私は、舞踏というものはこの人の出るものしか観たことがない。だから専門的なことはぜんぜんわからない。ただ人の体の動きだけは多少わかる。それで体の動きばっかり観ていた。しかもほとんど清水さんだけを観ていて、他の人はちゃんと観ていない。それでも厚かましく素人の感想を言ってみる。

清水さん以外に男女2人の出演者がいたんだけど、見ているこちらがなんとなく気恥ずかしい感じになってしまう。
ふだんの生活では大人が人前でしないような姿勢や動作がある。逆に言うと、ふだんの生活で私たちが目にする人間の姿勢や動作はごくごく限られたものしかない。舞踏の演者は私たちがふだん目にすることのない姿勢や動作をする。それを見ながら、「変なことをしている」と感じないためには、「芸術」という枠に入れて見る必要がある。清水さん以外の出演者は、この枠に入れて見ないと見られないものだった。わたしは舞踏という枠に慣れていないものだから、ときどきその枠を忘れてしまう。で、枠が外れると「大の大人が変なことをしてるな」というみもふたもない感想に襲われて、なんだか照れくさくなるんだと思う。

清水さんの場合はぜんぜん違う。
私たちはふだん<自分の意志>→<自分の身体>という図式で身体を動かしていると思っている。でもじっさいに自分の身体をどこまで意識できているかちょっとでも問い直してみたら、自分が意識できているのはほんの一部分でしかない。身体の動きのうち、意識できずコントロールできていない部分。それが人それぞれに固有の特徴を作っていて、それを私たちはその人らしさとして感じとっている。
清水さんの動き(と動かないときの身体のありかた)にはそういうものがまるで無い。だから無意識の癖と意志とを持ったふつうの身体として見ることができない。ふつうの意味での人間の身体には見えない。
ときには外から見えない力によって動かされているように見えたり、ときには内から身体の各部分が持っている意志によって動いているように見えたり、またときには抽象的な何かが人間の肉体を借りて現れているように見えたりする。

たとえば見えない糸で吊り上げられているかのような姿勢。その糸が突然裁ちきられ、重力に引っぱられて崩れ落ちる動き。
身体の部分部分がそれぞれに意志を持ち、それぞれがおのれの意志を主張しあって、押しあい、あるいは引っぱりあっているような動き。次の瞬間にどう動くのか、まるで予測がつかなくて、目が離せない。
加速度とか力というものは、ふだんの私たちの生活では、具体的な物の動きを見ていて、そこから抽象する概念だけど、ここでは逆に抽象的なはずの速度や力のほうが具体的で、具体的なはずの肉体がただの借り物のように見えるときもある。
たとえていうなら、風そのものは目に見えないけれど、木の枝や葉っぱが揺れているのを見たり、枯葉やなんかが渦巻きをなしているのを見ると、そこに風があることがわかる。そのようなものかもしれない。

ふだんのわたしたちの身体を惰性としての身体だとすると、ここにあったのは純粋な可能性としての身体だと言えるだろうか。
外からの強制や自分自身の自縛。ちょっとずつ澱のようにたまったそういうものに押さえつけられ、訳のわからない不自由さを感じながら、それを自分の個性だとごまかしているのがふだんの身体のありようだろう。
そういうものから解放されれば、身体はここまで自由になれる。自由になってしまえば、いろいろなものが身体を通り過ぎていく。すべてを観終わったとき、とてもすっきりした。
「芸術」という枠も必要ない。ただ見て、まっすぐ受け止めれば、ダイレクトに感じとれる。

いったいどうしたらこんなことができるのだろう。清水さんはふだんどんなことを感じて考えて生活しているのだろう。
厳しい修練の積み重ねはきっとあるはずだ。極微の部分まで意識の中で身体を細分化して、それぞれが持っている力、そこに働く力を感じとったり、動きを感じとったりしているのだろうか。
それにしてもふだんの清水さんは、私の知っているかぎり、真面目で誠実で優しい1人の男の人なので、その秘密がぜんぜんわからなくて困ってしまう。