ファーブル『植物記』

J-H.ファーブル『ファーブル植物記』平凡社、1991年10月25日、ISBN:4582537030。(堺市立中央図書館蔵、471-フ)。

とにかくおもしろい。
あんまりおもしろすぎて、読み終わるのがもったいないぐらいだった。
もったいなくてほんのちょっとずつしか読まないようにしていたら、2週間の貸し出し期限を過ぎてしまった。
そうやってちょっとずつ読んでいたけど、とうとう全部読み終わってしまった。

ファーブルと言えば『昆虫記』なわけで、私もとうぜん子どもの頃に読んだはずだけど、特におもしろかったという記憶はない。(子ども向けに直されたものを読んだのかもしれないが)。
でも、この本はよかった。
この1冊でファーブルが大好きになってしまった。

ファーブルの人となりや生涯について私は何もしらない。
でも、この本を読んで言えるのは、ファーブルは幸せな人だったということだ。

ファーブルは、人間も植物も、時には腔腸動物さえも、区別がついていないのではないか。
いや、学問的な分類はもちろんちゃんとできている。
ただ、それらを見ているのは、根本的には同じ目なのではないだろうか。
だから、植物の話をするのに腔腸動物ヒドラのことから始め、さらにその枕にヘラクレスの神話を持ってくるなんてことができるのだ。
その目は、いつでもどこでも世界は驚きと謎に満ちていることを知っている。

たぶん、人間はだれでもそういう目を持っていたはずだ。
そういう目で世界を見ていたはずだ。
ただ、人間は年をとるごとにそれを忘れていく。
そうして、だんだん目を曇らせていくことが普通だと思われている。

そうするのが普通だと考えられている人間の世界では、ファーブルは<変わった人>と見られただろう。
きっと苦労もしたはずだ。
でも、その目を失ってしまったら、学問上のどんな業績を挙げたとしても無意味だろう。
そうしてファーブルは最後まで見事にまっとうした。
ずっと後の時代に生きる私たちに、すばらしい本を残してくれた。
これが「ファーブルは幸せな人だった」と私が思ういちばんの理由だ。

さて、比べるのも愚かなことだが、翻って自分のこの雑記帳のことを省みる。
あかんな。
この雑記帳の第一の目的が自分のための備忘録ではあっても、第二に文章の練習という目的もある以上、自分がおもしろいと感じたところが書けていないとダメだ。
雑草の観察をしていても、畑仕事をしていても、私はおもしろくてしょうがないのに、そこがぜんぜん書けていない。
これではダメだ。
ここらで気持ちを新たに、何をどう書くか、もう一度考え直してよう。