『寝ながら学べる構造主義』

内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書251、2002年6月、ISBN:4166602519
寝ながら読んでいたら、ほんとに眠ってしまった。
これが「笑って学べる構造主義」だったら、そんなこともなかっただろう。適度にわかりやすくて、すらすら読んでいたら、いつの間にか眠っていたらしい。まったく、適度にわかりやすいのにも困ったもんだ。いや実のところ私はちっとも困ってなんかいない。これがもっと難解であれば1ページ目で眠ってしまい、むやみにわかりやす過ぎればさっさと全部読んでからやっぱり眠ってしまったであろう。どちらにせよ私が眠ってしまうことには変わりない。春は眠いものである。
そういう訳で、適度にわかりやすいこの本を読みながら、私はぐっすり眠ってしまったのであった。ぐっすり眠った私は、『寝ながら学べる構造主義』という本を読んでいたこともすっかり忘れてしまった。ああ困った。いや困らないけど。もういちど読んでみよう。
ところで恥ずかしい過去を告白なんかしちゃったりすると、私も若い頃には「構造主義」なるものを勉強してしまったことがある。フーコーさんの本なんかフランス語で読んじゃったりして。人間、暇と体力を持て余していると、ついついそういうことをやってしまいがちである。若気の至りとはよく言ったものである。反省はしていない。
ニーチェさんはさらにその前に読んで、いっぺんでファンになった。私はニーチェさんが好きだ。もう大好きだ。ニーチェさんは楽しい。もう笑いすぎて頭から頭蓋骨が外れるくらい楽しい。ニーチェさんはほんとにいい人だ。いや実物はとんでもなく嫌なヤツだったかもしれないが、もうとっくに死んじゃっているから、心配しなくていいのである。実に惜しい人を亡くしたものだ。ニーチェさんがまだ生きていてくれたらねえ。とは言え、もし生きていたら160歳を越えてしまう。いくらなんでも、それはちょっと。いくら大好きなニーチェさんだって。それにだいいち本人もいろいろ大変なんじゃないかしら、160歳になんかなったら。だからやっぱり死んでて良かったって納得しなきゃ。残念だけど。でもひょっとしたらニーチェさん今もどこかで密かに生きているのかも。そう、それも楽しそう。
何の話だっけ。そうそう構造主義。どうやら構造主義の人たちは,ニーチェさんを親分さんとして慕っているらしい。そう知った私は、構造主義の人たちも応援してみることにした。そういう昔のよしみで、この本も読んでしまった。
複雑なものは複雑に理解するのがいちばんだ。私はそう考えている。複雑なものは複雑に理解するべきだと私は強く主張したい。強く主張したいが、しかしさっき思い付いたばかりなので、自分でも何を主張しているのか、じっさいよくわからないなのである。
複雑に理解するべきことを複雑に理解できないのは、理解する側の頭が足らないからである。頭が足らないのを棚に上げて、「わからんじゃないか」と怒られても困る。これはほんとに困る。それは私のせいじゃない。あんたのせいだ。だからニーチェさんやフーコーさんにならって、私も「これだからバカは困る」とでも言いたいのかもしれない。が、じっさいにはそうではないかもしれない。
複雑な理解というのは、わからないこととは違う。だからニーチェさんや構造主義について、専門家と呼ばれる人たちが、解説と称してわけのわからないことをもったいぶって書いているのを読むと、私は怒る。「なに寝言言うとんじゃボケ!わかってないんなら何にも書くな!」と叫んだり、本を投げ捨てたり、付録についている解説の部分をちぎってしまったりする。この本ではそういうことがなかった。著者の内田さんはちゃーんとわかっているのである。安心して読め。
ついでに言うと、複雑な理解は簡単な理解とは違う。それはもうまったく別物であると断言してもかまわないが、言い過ぎかもしれない。どっちにしても、なんでもかんでもわかりやすく説明してくれと言われても困ってしまう。困ってしまうが、私がじっさいそういう場面に立ってしまったら、誤解をおそれずわかりやす過ぎるくらいわかりやすい説明をすることにしている。誰も信じないが、これでもなかなかサービス精神旺盛ないいひとなのである、私って。
この本の著書もやっぱりサービス精神旺盛らしく、じつにわかりやすく説明してくれるのである。

レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。

うーん、これはいい。どうせならこの調子でずっと行ってもらいたかったものだが、それでは本1冊にならなかったんだろう。それは「三浦和義証拠がない音頭」のようなもので、ごく内輪で楽しまれているのかもしれない。それを聞く悦楽を享受している人がこの世にいたら、私は羨む。
だから構造主義について学びたいなんてキトクな人がいて、この本をたまたま手に取ってしまったとしたら、これだけ読んであとはさっさと原著に当たるべきである。本書がカバーしていないところなんかいくらでもあるが、そんなところで重箱の隅をつついても暇つぶしにもならないからである。