相棒んちの犬。

昨日、1月3日に亡くなりました。今日火葬をしてきました。めでたい話じゃないから読みたくないという人のために、ここで区切ります。
いつ息を引き取ったのかわからなかったぐらい静かな死でした。シーズー、雄、18歳。大往生です。
だんだん足が弱ってきて、とうとう歩けなくなったのが去年の夏を過ぎた頃だったでしょうか。「11月の引越しまで持たないかもしれない」って相棒家族に言われながら、無事引越しをクリアし、「年は越えられないかもしれない」って言われながら、なんとか正月も迎えました。年齢による衰えを除けば、たいした病気もせず、もりもり食べ、しっかりウンチをし、最後まで家で面倒を見させてくれました。じつに飼い主孝行な犬です。
私が初めて相棒の家に行ったとき、馬のようにパカパカ走り回り、猫のようにスリスリしてくれ、顔じゅうベロベロ舐めてくれました。あのときのことはずっと忘れません。その後もいつでも大歓迎してくれ、私と相棒家族との間を取り持ってくれました。相棒家族の間も取り持ってくれ、いろんな人をもてなした生涯でした。もし彼がいなかったら、私と相棒、私と相棒家族、相棒家族の間の関係は今とは違ったものになっていたでしょう。
ハナ(ウチにいた柴犬)のときも同じことを思いましたが、やっぱり犬ってスゴいやと思ったのは、もう脳も衰えて、平たくいうなら痴呆状態になってからも、人間を求めることでした。オシッコが出た、ウンチが出た、腹が減った。そういう要求をします。そのうえ、特に何にもなくても鳴きます。で、人間が行って、声を掛けたり、体に触ってやると、鳴き止みます。私が誰かもはっきりわかっていなかったでしょうが、その私がそばに行っても同じでした。これはもう、人間という類を求めているとしか思えません。犬って、根っこの底から人間と共に生きるようにできているんだと思いました。人間への信頼感。共に生きることへの要求。これは、人間の側が生半可な気持ちではじゅうぶんに応えることができないぐらい、大きくて強いんだと感じました。これを粗末に扱うことは決してできない。裏切ってはいけない、いや裏切れない。そう思いました。
別れはつらいけれど、生きているものには必ず死ぬときがくる。彼のいない生活に慣れるにはまだ時間がかかるし、それまで寂しい毎日が続くけれど(相棒母は鳴き声が聞こえると言います)、彼が残してくれたものは、ずっと私たちの中で生きている。そして彼が私たちと生きていたという事実は、永久に誰にも取り消すことができない。だから、悲しむのではなく、彼が立派な生涯を終えたことを喜びたいと思います。